タナカ新聞

タナカ新聞

関市地域おこし協力隊 上之保地域担当の田中が上之保地域の話題を取り上げて新聞を発行しています。

*藁草履と歩んだ学生時代* 第3号

 

上之保唯一の現役藁工品製作者

 

関市上之保鳥屋市藁工品製作者

「みの」を作る河江 悦子さん=関市上之保鳥屋市上会津自宅離れにて

 

 

 関市上之保の北端部、鳥屋市(とやいち)地区で毎年春に開催するお祭りで聞こえる「カサッ、カサッ」「カサッ、カサッ」とワラ同士が擦れ合う音。棒振りや白面などの大人は草鞋(ワラジ)、子ども神輿は藁草履(ワラゾウリ)を履く。計10足の草鞋と藁草履を作っている一人の女性がいる。

 

 毎週決まった日に行くシルバーの仕事は「生きがいや」と話す鳥屋市上会津集落在住の河江悦子さん(81)だ。同地区の最北端部にある、ネイチャーランドキャンプ場から三キロほどさらに奥に進んだところで生まれた。現在は草木が生い茂り、跡形もない。実家は農家で田んぼや畑はもちろん、子牛を買い育てる、肥育農家もしていた。現在の不動堂近辺に育てた子牛を引き取る業者がおり、祖父の手によって牛がある程度の大きさに育つと出荷していた。

 

小学校は実家から6㎞離れた現在、不動堂が建つ敷地内にあった鳥屋市尋常小学校に藁草履を履き、1時間強かかり登下校していた。当時の道路は現在のようにアスファルトで舗装されておらず、特に雨の日の後はぬかるみ、水溜まりがところどころにあった。

 

 梅雨時には下校の際、ふきの葉を皿代わりにして黄色に実ってたいばらいちご(野いちご)を食べたり、疲れて道の途中で寝てしまい、両親に心配されたりしたこともあったという。自宅から4kmほど行ったところに水が高い所から流れる場所があり、土でドロドロになった足と藁草履を洗い、前日に干して乾いたもう一つの藁草履に履き替えて登下校した。小学五年生までは祖父母に作ってもらった藁草履を履いていたが、毎日使う2足の藁草履はほどけてしまうため、1週間しか使えなかった。小学6年生の夏休みになると、「もうすぐ中学生なんだから」と言われ、祖父母に藁草履のつくり方を教えてもらいながら藁草履をつくり始めた。自分で作った藁草履は3日しかもたず、昭和27年に中学校卒業するまで毎日作り続けた。高校へ進学したのは22人中3人のみだった。現在では高校進学が当たり前になっているが、当時は山に木を持っている裕福な家庭に住む子のみが進学していた。

 

 中学卒業後は実家を出て岐阜市内の紡績工場に就職し、6年間働いた。初任給は当時の額で月4千円だった。

 

 昭和32年11月に現在の家に嫁いだ。養蚕や畑や田んぼ・お茶・椎茸栽培をする農家で七人家族だった。子育てや家事はもちろんのこと、農作業、敷く藁で編んだ「むしろ」を編むお手伝いもしており、大忙しの毎日を過ごした。

 

 「こんにちは~こんにちは~」と大阪万博が開催した昭和45年(34歳)、育児がひと段落したこともあり再就職した。その後、岐阜県内外の工場で定年(平成11年)まで勤務した。

 

 平成12年にシルバー人材センターに登録し、上之保奥山キャンプ場で夏場にバンガローの清掃などの仕事をした。

 

関市上之保鳥屋市藁工品製作者草鞋

草鞋を履いて見せる=河江さん

 

 76歳(平成24年)になったある日、鳥屋市地区のお祭りで使用する藁草履・草鞋を作っていた近所の人から、「私の代わりに作って欲しい」とお願いされ、学生時代の記憶を頼りに見よう見まねで作り始めた結果、作ることができた。それから毎年冬の農閑期になると自宅の離れで草鞋や藁草履だけでなく、藁を使う「むしろ」や「へっとり」など様々な藁工品を作っている。

 

 数年前、近所の人の誘いでシルバー会員が作成した小物やパンや野菜等の販売を行う、とんてん館(関市本町商店街内)で「みの」(農作業する際、夏場の暑い時期の強い直射日光から背中を守る藁工品)を5枚限定販売したり、船山地区、明光寺で行われた布草履のワークショップの講師をしたりしたことも。さらに「みの」は好評で近所の人から「作って欲しい」と要望があり昨年度冬に作成して配った。平成30年の春祭りで使用する草鞋と藁草履はストックがあったため作らなかったが、来年度以降も「わたしが元気なうちなら、頼まれた作るよ」と話す。

 

2018年4月1日発行

 

 

タナカ新聞とは・・・??

 

岐阜県関市上之保地域で関市地域おこし協力隊として活動する田中利弥(私)が、上之保地域で独自の目線で見つけたヒト・モノ・コトを取材し、不定期で発行。

 

〇掲載場所:上之保生涯学習センター・上之保温泉「ほほえみの湯」

 

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